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永田町通信 84
 

『沓掛から矢田へ』

 「私は誰にも出馬するとは言っておりません。ですから、あえて出馬しないと言明する必要もありません。私は以前も申し上げたように、任期が切れる前日まで、引退は表明しません。私は役人時代から多くの政治家を見て来ましたが、引退表明した後の政治家ほどみじめなものはありません。周りの人間は手の平を返したように相手にしなくなり、その政治力は地に落ちてしまいます。私はそうはなりたくありません。最後の最後まで、参議院議員として、国家のために、ふるさとの石川のために力を尽くします。」

 沓掛哲男先生は、1週間ぶりに面会した県連会長(当時)に対して、ホテルの一室で、静かに、そして力強くそうおっしゃった。

 事態が急変していたのは、その1週間前。

 読売新聞全国版のスクープとして、
 「沓掛氏、無所属で出馬へ!!」
 とのショッキングなニュースが流れ出たのだ。記事によると、沓掛先生ご本人自らが、参議院自民党事務局に連絡し、
 「無所属で出馬する場合、どのような選挙上の制約があるのか?」
 と質問したというのである。

 当然、その情報はすぐに参議院自民党会長である青木幹雄さんの耳に入り、ビックリした青木さんが沓掛さんを呼んで真意を確認したところ、
 「新進石川の金原県議と相談している。来週の出版パーティーが終わるまでは、出るとも出ないとも言わない」
 と言った、との記事。

 県連会長であり、参院選の選対本部長でもある私は、とにかくビックリ仰天。
 なぜなら、自民党石川選挙区の公認候補決定については、半年間の議論の末、沓掛先生の予定者として名前を出したうえで、最終的には県議である矢田とみろう氏に決定していたのだから。

 それも、県連拡大総務会を開き、その席上で矢田さんが後継候補に決定したところで、沓掛先生も同席し、2人で握手まで交わしているのである。
 なのに、どうして、投票日まであと2ヶ月と迫ったこの時期に、降ってわいたように沓掛さんの無所属出馬の情報が表面化したのかだ。

 答えは、3月25日にあった。
 マグニチュード6.9の能登半島地震が起きたからであり、その復旧、復興支援に燃える前防災担当大臣の沓掛さんが、
 「このままバッヂを外すわけにはいかない!!」
 と、使命感にエネルギーを得たというわけなのだ。

 震災後は、ゴールデンウィークの海外視察の予定をキャンセルしてまで、計8回も能登半島被災各地入りした。そして、ひざをつき合わせて被災者や商店街の皆さんと復旧対策について語り合った沓掛さん。
 「俺がやらなきゃ、誰がやる!!」
 と、引き続き政治家として期待にこたえるために、無所属でも出馬したいと燃えあがったことは想像に難くない。

 しかし、だ。
 党支部や、県議全員や、市町村などの意思を聴取した上で、半年間もかけて矢田さんを後継公認候補と決定してしまっており、矢田さんも石川県内全域を支持拡大に向けて走り回っているまっ最中。沓掛さんが無所属出馬という事態になれば自民党への敵対行為になり、除名処分ともなる。何よりも、そういうことになれば、今まで沓掛先生を信頼して応援してきた支持者が二分されて闘い合うことになるわけで、そうなれば勝っても負けても悲しい結果になり、人の心はすさんでしまう。

 そもそも政治とはチームワークでもあり、震災復興に向けては、政府与党が一体となって団体戦で取り組まねばならない最重要課題。23年間も地元で県議をつとめて来た矢田さんだって能登の事情は知り抜いており、復興対策を担うにふさわしい人物だし。

 結局。
 2週間ほどすったもんだのあげく、沓掛先生はあれほど「しない」と言っていた記者会見を開いて、
 「次の参院選には出馬しません!!」
 と言明した。

 私は、沓掛先生の一途でまっすぐな使命感は痛いほどよくわかる。
 しかし、人の世には、やってはいけないことがあると思う。それは、今まで応援し、支え合って来た仲間を悲しませることだ。
 と同時に、私たち若い国会議員に世代交替するとともに、命ある限り、指導をしていただきたいと思う。

 人生の出処進退はむずかしい。
 むずかしいが故に、今回の沓掛先生の想いは、私たち若手が受け継いで行かねばならない。その重い責任を両肩に受けて、矢田さんも闘いを進めて行かねばならないのである。(了)


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