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永田町通信 18
 

『どっこい森喜朗』

 どすこい、ではない。どっこい生きてる森喜朗、である。

 みんなすっかり忘れてしまっているのではないだろうか、21世紀幕開けの総理大臣は森喜朗であったということを。

 まだ辞めてから一年も経っていないというのに、日本国民の記憶の彼方に追いやられてしまっていることに、私は一抹の寂しさを禁じ得ない。

 ここで改めて、総理大臣としての功績を思い出しながら、現在の役まわりを確認しておきたい。

 私が最も評価する点は、文教族として初めて総理大臣に昇りつめたことである。教育改革国民会議こそ、小渕元総理から引き継いだものの、その答申を具現化し、教育改革関連三法案を成立せしめ、教育基本法改正の議論を表に出してきたのは、特筆すべきである。

 戦後、文部省と日教組は長らく不毛の対立をしてきた。その関係にピリオドを打ったのは、森幹事長(当時)の下での自社さ連立政権である。以来、日教組も歩み寄りを見せ、供給側(文部省、日教組)から消費者側(産業界、保護者、地域)の要望による教育改革が進んできた流れは、案外知られていない。

 前出の三法案の内容は、飛び級の全面解禁、奉仕活動(体験活動)の促進、不適格教員の配置換え(現場からの追放)などなど、画期的な政策であり、今まではなかなか手がつけられなかった聖域。私も、国会審議が行われる直前に日教組の本部を訪問し、政策協議を行なわせていただいたが、大旨賛成の方針であった。自民党の文教族議員が、昔で言えば敵の総本山に乗り込んで行くなど考えられなかった。これも、森先生がくさびを打ち込んで下さったおかげでもある。

 二つめに評価する点は、小泉総裁を誕生させたことである。まぁ、本人が辞職に追い込まれたことについては、自業自得であり、仕方ない。しかし、マスコミ始め風圧厳しい中で、自ら進退伺いを表明し、臨時総裁選を決断したことは重い。

 さらに、混明する政局の中で、総裁選に「地方三票総取り方式」を実行させたことは、何より特筆されるべきである。つまり、自民党総裁選とは、派閥間のサル山のボス争いであり、一般党員なんて蚊帳の外、という世間の冷笑をガラリと一変させたのがこのルールだ。

 時あたかも、アメリカ大統領選の直後。国民は、民意で選ばれるアメリカ型のリーダーシップにあこがれを抱いていた時期。自民党員にしか投票権は限られているとは言え、連日のマスコミ報道によって国民総参加型の印象を与えた。いわゆる、永田町の数の力で有無を言わせないやり方ではなく、国民の総意に則した、民意反映タイプの総裁選が演出されたわけである。

 もちろん、当時の森総理の念頭にあったのは「いかにして小泉純一郎に勝たせるか 」。そのためには、国民を巻き込み、マスコミに一大ブームを起こさせ、自民党員に責任感を持たせ、国民議員(派閥にしばられた)に意識改革を促す方法が必要だったのである。

 地方票の総取り方式で、全都道府県の地図が小泉色にぬりつぶされるのを見て、立候補者の亀井静香氏が決戦投票目前で「小泉支持」にまわったのは圧巻だった。派閥支配政治がガラガラと音を立てて崩れ去った瞬間だった。

 そして、小泉総理の後見人となってからの森喜朗の立居ふる舞いである。アノ臨時総裁選を断行しなければ小泉首相の誕生と今日の支持率の高さはないだけに、小泉さんも森さんに一目置かざるを得ない。そして、陰にかくれる参謀役になってこそ本領発揮するのが森流調整政治。

 橋本派の青木幹雄氏との早大先輩後輩関係を最大の軸としながら、派閥間調整、与党内(とりわけ公明党)調整、野党対策など、あり余る人脈と人の良さと座持ちの良さで、ともすると険悪になりがちな小泉構造改革路線のきしみに潤滑油となっている。これといった大仕事は、対口外交(北方領土交渉)での根回しや、インドとの外交関係の構築があり、必ず後世に評価されるべきものである。

 口は災いのもと、の代名詞のようにマスコミから叩かれたが、それは一面だけの評価。「機を見て敏なるは鋭なるなり」とのことわざもあるということを、記しておきたい。


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