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闘う男、馳浩
 この度、再び新しい戦いに挑む馳浩氏と元谷代表が、一層の親交を深めるべく緊急対談を行いました。

 

 

「教育と観光」で中心市街地の活力再生を!
 

[元谷]
 
馳さんは、安定した参議院議員の席をなげうって新しい闘いの場に挑むことを決意されたのはどうしてですか。

[馳]
 
私の人生は闘いの連続でした。アマレスにロス五輪出場に、プロレス・リングに国会の参議員として今日まで闘い続けてきました。そして今、総選挙を迎え、自民党県連会長として県都金沢において負けることの出来ない闘いの場に臨み、必勝候補の擁立に東奔西走しました。しかし、思い叶わず…。ならばと一身をなげうって自ら打って出ることを決意しました。

[元谷]
 大変な決断をされましたですね。今、日本は大きな変革のときです。特に若い政治家には21世紀の日本を改革する原動力になってもらいたいです。そして、既成の権威と古い伝統にしがみつく金沢に、渇を入れていただきたいです。

[馳]
 そうですね。金沢はいわゆる「箱書き文化」と言うか、箱の裏に名前が書いてあればそれを鵜呑みにして信用してしまうとか、或いは権力というか、長いものに巻かれていればこの町で食いっぱぐれないから、そのためには自分が思っていても言わない、閉鎖的な部分というのはすごく感じるんです…。一方で金沢は学生の街として多くの若い人がいますので、若い人の街金沢として、「教育と観光」で中心市街地の活性化を図り、県都金沢の活力再生を図っていきたいと思っています。

[元谷]
 頑張って下さい。馳さんは、非常にさわやかなイメージの熱血感動型の好青年で、若さに溢れた男三十代で、一番いい年齢ですね。もちろん、私もまだ気持ちは三十代ですが…(笑)。

[馳]
 一度お聞きしようと思っていたのですが、事業を起こされた二十代の話はいつもお聞きするのですが、その後の三十代の話はあまり聞いたことがないですね。

[元谷]
 そうですか…。三十代は阿修羅の三十代ですよ(笑)。二十七歳で事業を起こして、金沢へ打って出たのが昭和五十年、三十一歳のときです。

[馳]
 
どんな商売も新たなエリアに進出するときには、パイの奪い合いとか、いろいろなライバルとかの存在がありますので、闘いの連続だったということでしょうか…。

[元谷]
 闘い!ということでは、馳さんの方が、その道のプロではありませんか…(笑)。

 

馳浩の教育論
 

[馳]
 そう言われると恐縮しますが、確かにプロレスラーとして闘っていたとき、どんな相手とも正々堂々と、自分より強い相手にもいつも真正面から闘っていました…。

[元谷]
 
馳さんは、星稜高校の教員時代にロス五輪に出場したり、教師として教育の場でも闘っていたんですね。

[馳]
 
そうです。教師というのもある意味では、生徒と真正面から向き合わなければ心がつかめませんので、それもまた闘いと言えるかもしれません。

[元谷]
 
私の子供の頃は、学校以前に「生きる」ということに闘い、そして学び、人より早く大人になりました。私の親父は、私が小学校に入るちょっと前に結核になって、入退院の繰り返しで十年近く闘病の末、亡くなったのですが、野武士のような激しい面を持った男で、小学3〜4年生まではなぐられたり、叱られたりして男としての躾を教えられました。子どもの人権がどうのこうのや、体罰がいけないとか、盛んに言われている現在からは想像もつかないと思いますが、しかし、幼少期の躾は必要だと思いますよ。

[馳]
 
私ももちろん体罰を肯定はしませんが、なぜ体罰にまでいたるかと考えると、それは本気になって、子どものことをよく見ているからだと思うのです。私も教師をやっていましたので、そのあたりの真摯な教師魂というのは良く理解はできます。

[元谷]
 
さすがに、教育の話には熱いものをお持ちですね。馳さんのお子さんも大きくなられたのでは…。

[馳]
 
二歳半になっています。

[元谷]
 
鈴音と書いて、りおんちゃんでしたよね。あっという間に、小学生になって、すぐにお嫁に行ってしまう…。早いものですよ(笑)。

[馳]
 
今はまだそこまで考えたくはありません、父親としては…(笑)。いつも女房と話をしているのは、どちらかが子どもを叱ったときには、どちらかが優しくフォローするということです。私が躾を強く言ったときには女房が、その逆の時には私が、子供に優しく接する…、そんなバランス感覚が子育てにも必要だと思っています。

[元谷]
 
いま奥さんのお話が出ましたが、高見恭子さんとは馳さんが結婚される以前からの友人なんですよ。馳さんと結婚されると聞いてびっくりしたものです。タレント活動をされているのはもちろん、著述の世界でも才能を発揮していらっしゃいますね。

[馳]
 
女房の父親の血筋をしっかりひいているのではないかと思います。これまでにも、小説、翻訳、詩集など三十冊ぐらい出しているはずです。我が女房ながら尊敬しています。

[元谷]
 
そう、恭子さんのお父さんは作家の高見順さんでしたね…。馳さんは、そういったことをあまり口にしないようですが、そのあたりの奥ゆかしさは、やはり金沢に育った男だからでしょうか…(笑)。

[馳]
 
どうでしょうか、自分はよく分かりませんが、小、中、高校はずっと金沢なのは確かです…(笑)。

[元谷]
 
ともあれ、そのあたりの闘う心と奥ゆかしさを併せ持っている方だから…。本日はありがとうございました。

 

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