月刊北國アクタス 99年3月5日発行
北陸の「巨人」伝説
昭和のヒーロー・ジャイアント馬場追悼
「良心を映し出す鏡」

 密葬の日、初めて馬場さんの自宅マンションにうかがった。行ってみて驚いた。いつも通る道沿いだった。あの馬場さんなら都心に大きな自宅を建てていてもおかしくはないのに、と思うと、改めて馬場さんの質実さを感じた。

 白で統一された部屋で、白い布にくるまれた馬場さんを囲んでいるのは、元子夫人と全日本プロレス関係者、そして数人の親族だった。

 わずか20分ほどで読経、焼香を済ませると、巨体を担架に移して8階の部屋から1階まで、非常階段を使って移動した。遺体を担架に移す時、元子夫人が鳴咽(おえつ)をもらすのが聞こえた。

 遺体の移動には20分かかった。レスラー全員で一歩ずつ丁寧に運んだ。

 下に下りると、密葬参列者の倍を超える報道陣がマンションを囲んでいた。カメラのフラッシュや騒然とした雰囲気に、現実に引き戻される。元子夫人は報道陣に軽く一礼して搬送車に乗り込む。右手をそっと馬場さんの遺体に添えながら。

 われわれレスラーはお見送りした後、9階の広いリビングに戻った。「ご苦労さま」と親族の方から、馬場さんの大好物だった豆大福を頂いた。馬場さんの遺体を運んだ手で、頂く。たった4口で食べてしまう。だれも馬場さんの話をせず、差し障りのない世間話をしただけだった。

 私が新日本プロレスとの契約を終了し、全日本プロレスに入団のお願いをしたとき、馬場さんはこう言った。
「おれはOK。だけどウチの選手に了解を取ってから返事するよ」

 その2日後、キャピタル東急ホテルの一室で顔合わせし、正式に私の入団が決まった。契約書は交わさず、口約束。私は馬場さんの笑顔を見て、これで十分と感謝した。
「プロレスファンがスポンサー」という愚直な経営方針を貫いた馬場さん。リング上のダイナミックさと、細心な生き方は好対照だった。馬場さんは私にとって、良心を映し出す鏡のような存在だった。


 メモ

 星稜高校在職中にアマレス選手としてロサンゼルス五輪に出場。プロレス転向後は新日本プロレスの中心選手として活躍した。平成7年7月、参院選石川選挙区に立候補し当選。全日本プロレス所属の現役レスラーでもある。


馳浩 in Mediaメニューへ戻る



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